劇評144 

スタッフ、キャスト全員が、持てる才能を十分に発揮することが出来た秀作。


「イリアス」
 

2010年9月4日(土)晴れ
ル テアトル銀座 17時開演

原作:ホメロス
演出:栗山民也 脚本:木内宏昌 音楽:金子飛鳥
出演:内野聖陽、池内博之、高橋和也、馬渕英俚可、
   新妻聖子、チョウソンハ、木場勝己、平幹二朗 /
   初嶺麿代、中川菜緒子、一倉千夏、飯野めぐみ、
   宇野まりえ

場 :  初日ではあるが、初回ではない。12時からの回が初っ端である。でも、初日でマチネがあるというのは、意外に珍しいなと思いました。会場に入ると、舞台の幕は上がっているのだが、舞台上に明かりが入っていないので、薄っすらとしかステージを伺い知ることが出来ない。下手に楽器の設えがあるので、ここで生演奏が行われるのだなということは分かりました。
人 :  7割位の入りでしょうか。後列10列位はパラパラとしか席が埋まっていない状況です。豪華な役者陣が居並ぶ演目ではあり、主催にはテレビ朝日や産経新聞などメディア各社も名を連ねてはいるのだが、なかなか集客は厳しいようですね。観客層は40〜50代が中心でしょうか。意外にも男性一人客が多いのが目に付きます。

 ホメロス原作の「イリアス」は、戯曲ではなく壮大な口承叙事詩である。その世界最古の叙事詩とも言われる原本を、上演時間3時間の戯曲にまとめ直す作業から本プロジェクトはスタートしたと思うが、木内宏昌が手掛けた脚本は実に的確で簡潔にまとめられていて見事だと思った。初見の人にも分かりやすいように、登場人物それぞれの境遇を違和感なく台詞に乗せて説明し、かつ、それぞれの人物が自らの思いを吐露しながらも、戦闘の状況などは観客の想像力を掻き立てるような客観的な語り部の視点で描くなど、物語を多面的に再構成することで、グイグイとトロイア戦争の深部へと分け入っていく。

 また、伝承されてきた物語を記したという原作の真髄を生かすためか、台詞は朗誦が基本となっているが、この手法も「イリアス」独自の世界観を形成することに成功している。掛け合いの台詞だけでは、どうしても物語が日常的な地平に留まってしまうのは否めないが、この物語において登場人物たちは常に神と対峙する局面を迎えるため、朗誦によって天に向けて言葉を謳い上げることで人間の在り方がクッキリと透けて見えてくるのだ。また、感情は染み込んでいるのだが決して感情的に寄ることはない硬質な台詞が直球で客席に投付けられることになるため、観客は否応無しにその言葉をストレートに浴びさせられることになる。夾雑物を一切排除したシンプルな設定であるが故に、その言霊の硬度はさらに強さを増しているようにも感じられる。

 言葉と役者に全面的な信用を置いて物語を託した栗山民也の演出は、潔く心地良い。しかし、この演出意図が見事に達成された大きな要因は、百戦錬磨のベテラン俳優陣がキャスティング出来たことに他ならない。

 アキレウスを演じる内野聖陽は、物語の中核に居てトロイア戦争の勝敗を決する重要な役どころである。鋼のように強靭に造り込まれた身体は戦士そのものであるが、その反面、怒りによる感情を棄て切ることが出来ずに戦いへの参戦を思い悩む男の揺れ動く思いを繊細に謳い上げて見事である。また、真に愛し合うチョウソンハ演じる盟友パトロクロスに対する溢れ出る激情に、この男の弱さと優しさを垣間見せる。チョウソンハはこのカンパニーで一番の若さであるが、俊敏な動きとトーンの高い声質により、重鎮が居並ぶ俳優陣の中のおいてその若さが良い意味で一際輝く存在感を得ている。

 池内博之はこのところ注目の舞台への出演が続いているが、その経験で培った実力を本作においても遺憾なく発揮し、トロイアの戦士ヘクトルを演じ切る。時に感情に引っ張られる時もあるような気もするが、それも役柄の心情とリンクしているため、よりリアルなシーンへと変質させることが出来ていると思う。オデュッセウス演じる高橋和也は、感情の起伏が激しい戦士たちの中において、冷静に状況を把握し確実に駒の歩を進める知将の揺るがぬ強さを引き出していく。

 馬渕英俚可や新妻聖子は、戦いの渦を遠巻きに見る客観的な立場で事の顛末を語る役回りを持つが、アンドロマケを演じる馬渕英俚可は、母でもある女の強さと腹の据わった覚悟を滲み出させることで、戦争の無意味さにしっかりと拮抗する意思を観る者に叩き付ける。新妻聖子は物語の語り部的役割を受け持つカサンドラを演じるが、ミュージカルで鍛えた見事な歌声を披露しながら、未来が見えるがそれを信じる者はいないというアポロンの呪縛の中で逡巡する預言者の孤独を感じさせてくれる。

 木場勝己は、占いは信じないが神事には従うという矛盾を内包した名将アガメムノンを人間臭く演じ、実力派揃いのアンサンブルの中の其処個々で、グイと存在感ある杭を打ち込んでくる。平幹二朗のプリアモス王は、世の父の象徴のような存在だ。全ての悪業や悲嘆を全て受け入れることにおいて、初めて生まれてくるであろう純粋な「愛」を発露させ、この叙事詩を叙情の岸辺へと運んでいく。このベテラン2人の存在感は、至宝であると思う。

 金子飛鳥の音楽が、登場人物の誰もが「運命」や「神」と対峙するこの物語世界において、それぞれの人物たちの横にソッと寄り添い未だカタチになっていない心の機微を紡ぎ出す役割を持って、作品により温かな感情を付加させていく。また、時には繰り返される戦いや諍いと歩みを共にしながら、変転する運命の流れに従ってもいく。この慈愛に満ちた音楽の存在が、作品の中から普遍的なる感情の核を掴み出し、刷毛で一振り本作に鮮やかなアクセントを付けていく。

 栗山民也演出の下、スタッフ、キャストの皆が持てる才能を十分に発揮することが出来た秀作であると思う。シェイクスピアや他のギリシア劇とはまた様相を異にする、詠唱劇というジャンルを新たに切り拓いたという点からも、評価されるべき作品であると思う。