劇評146 

じんわり心に沁み入る秀逸な心理劇。


「ハーパー・リーガン」

 

2010年9月11日(土)晴れ
PARCO劇場 19時開演

作:サイモン・スティーブンス
訳:薛珠麗
演出:長塚圭史 
出演:小林聡美、山崎一、美波、大河内浩、
    福田転球、間宮祥太朗、木野花

場 :  PARCO劇場はお祝い花をロビーに飾る慣習がありますが、初日から1週間も経つと届いた花は枯れてしまうのでしょうね。何方から花が贈られてきたかというプレートだけが掲げられている率が高くなっています。会場内に入ると、緞帳は上がっていて、何やらタッチある彩りの壁がドンと舞台中央に設えられています。静かに開演を待つことになります。
人 :  40歳代が中心に感じる客層ですが、20歳代の若者の姿も見受けられます。U25チケットがあるためかな。いいシステムですよね。これ。芝居も、若い内に数を見る機会を増やしてあげることには大賛成です。しかし、視点を変えて見ると、入場料金を下げることで、集客を促す策という側面もあるのかなと。お客さんの入りは8割位かな。出来の如何ではないんですよね、満席率って。演劇ビジネスの難しさと面白さを、人ごとながら感じてしまいました。

 小林聡美の存在が本作のトーン決定付け、作品のクオリティーを一気に跳ね上げさせた。本作を貫くトーンとは、ハーパー・リーガンの「歩み」そのもの。物語は、彼女の歩く歩幅で、彼女が見つめる視点で、全てが語られていくのだが、小林聡美はどんな状況においても決して大仰になることなく、その存在感ある凛とした佇まいからハーパー・リーガンというひとりの中年女性のリアルを掴み出していて、絶品であると思う。

 戯曲自体も傍目には淡々と行動しているかに見えるハーパー・リーガンを追うようにそれぞれのシーンを活写していくのだが、次のシーンと続く感情のブリッジがはっきりと描かれていないため、ともすると何故そういう行動を取るのかという説得力を欠く恐れもある。しかし、小林聡美は一貫してハーパー・リーガンが持つ確かな感情を腹に据えているため決して行動の流れが破綻することなく、逆に全てがこと細かに分からないことがミステリアスに映ることにもなり、かえって観客の想像力が刺激されることになる。

 ハーパー・リーガンは、父の危篤の報を受け勤め先の社長に休暇の申し入れをするが受け入れられてはもらえず、しかし、不意に故郷へと帰郷することで彼女の小旅行がスタートする。どの場面にも出ずっぱりで様々な人々と出会っていくハーパー・リーガンであるが、この戯曲の特徴的なところは、その殆どのシーンが彼女と対する人々との一対一の対話だというところにある。また、対話という手法はその両人の心情を吐露するベクトルへとどうしても傾きがちになるが、本作では我々の日常生活と同様に、ごく表層的な会話に少々の感情を忍ばせていくため、舞台上で誰かの本心が露わに剥き出しなることはあまりない。

 そして舞台上で交わされた会話は、ハーパー・リーガンに何かしらの感情を芽生えさせ、彼女に次なる行動へと掻き立てさせる契機となる訳だが、それと同時に物語に集約されないまま捨て置かれた感情の残滓が残り香のように舞台に漂い続けることにもなり、そのコミュニケーションから零れ落ちた余韻が、まるでイギリスの鉛色の空のように作品全体を覆い尽くし、その茫漠とした有様が、現代の先行き不透明な気分ともオーバーラップしてくる。また、インターネットの存在が生活に侵入していることが、人の行動要因に大きく影響を及ぼしているという抜き差しならない有様が其処此処で描かれていく。人は一体何に支配されているのであろうか、と。

 これまで自らを抑制した人生を生きてきたハーパー・リーガンがその殻を解き放つ姿を通して、サイモン・スティーブンスは人の中に眠る意識の在り様を、目に見える出来事や交わされる言葉などを通して、具体的な現象面から冷静に斬り取っていく。

 長塚圭史はロンドンでさらにスキルに磨きをかけたと思う。感情面の切り取り方も切っ先鋭く、役柄の真情の核心部分を俳優の中から掴み出し、曖昧な部分を削ぎ落として磨き上げていく。また、ハーパー・リーガンの歩みのリズムに合わせて移動するセットの使い方が実に見事である。その立方体の装置は、側面が時に壁や居間や海を臨む階段などにもなる設えになっているが、ゆっくりと回転しながら次なる場面へと転回していくことで、ハーパー・リーガンの意識の歩みの足跡をくっきりと観客の目に焼き付けさせることになる。ここでの歩みがしっかりと描かれているからこそ、ハーパー・リーガンの道程を安心して観ることが出来る。浮気をしようが、衝動的に暴力をふるおうが、彼女は、自分の足で、しっかりと地に足を付けて歩いているのだから、大丈夫なのだと。

 道程の最期で木野花演じる母と出会うことで、ずっと封印してきた感情を彼女はぶちまけることになる。しかし、それで何かがはっきりと解決した訳ではない。しかし、彼女はこれまでの人生の澱をすっかり落とすことで、更に前進していくパワーを手に入れることになる。

 ラスト。無機的な壁が天上へと引き上げられると緑豊かな庭が現出し、オデッセウスのような旅路の果てに帰宅したハーパー・リーガンが家族と朝食を摂るラストシーンが目に焼き付く。淡々とそれまでの道程を語る彼女の話を真摯に聞く、訳ありで働いていない夫と対する光景に、一体何を見出すのか。安堵か、諦めか、それとも未来への希望なのか。この現実を観客に突き付けることで、合わせ鏡のように己の今の姿を問われている気がしてくる。どう? 潔く生きている、と。無理な押し付けがないため、かえってじんわり心に沁み入る現代の心理劇として秀逸な出来の作品になったと思う。