劇評170 

衝撃作、健在!

「血の婚礼」

2011年6月25日(土) 小雨
にしすがも創造舎体育館 特設劇場 18時開演

作:清水邦夫 演出:蜷川幸雄
出演:窪塚洋介、中嶋朋子、丸山智己、田島優成、
   近藤公園、青山達三、高橋和也、伊藤蘭、他

 

場 : 体育館を改造した、にしすがも創造舎体育館特設劇場は、蜷川演出の「95kgと97kgのあいだ」を観に来て以来の訪問です。いつも何か演目が掛かっているわけではないようですが、その間はどうなっているのでしょうね。稽古場とかで使われているのかな? 場内に入ると、舞台上には既に、街角のセットが組まれています。会場全体が既存の劇場にはない独特の雰囲気を醸し出しています。いい感じです。

人 : 山手線が遅れていたので、西巣鴨駅から小走りに会場へ向かう人が多かったですね。客席は、ほぼ満席状態かな。客席には実にさまざまな人々が集います。若いタレント候補みたいな子や、演劇関係者、老夫婦、友人同士などなど。皆、来場する理由のポイントは違うのでしょうね。作品に、そういう色々な切り口があるということなのでしょうか。

 演劇というジャンルには、マスメディアが流す表層的なエンタテイメントとは一線を画す、時代と拮抗するパワーを放ち気を吐く御仁の意気が生き残っていて頼もしい。清水邦夫の手になる本作も、人間の泥臭い生き様が、リアルにかつ詩情豊かな言葉で紡がれていて、観客の想像力を融合させていくことで始めて作品が完成するという刺激的なアジテートが独特だ。

 初演、再演、再々演と観てきているが、4度目の公演となる今回は、避難の象徴とも言える体育館で本作を上演するということに、何か予感めいたものがあったのかと感じ入る。しかも、劇団名は、大規模修繕劇団、である。命名は、井上ひさし氏と聞く。

 過去の上演時は、バブル期、バブル崩壊期、ネットバブル期という、大きな社会環境の節目の時期に楔を打ち込み衝撃を与えてきてきた。しかし、今回の上演では、明日が見え難い混沌とした今日の日本の在り方を問う、というコンセプトがしっかりと浮き彫りにされている。“時代を問う”という、戯曲の核に置かれたゴツっとしたテーマが、作品の内側から染み出してくる。

 ロルカのテキストがベースになってはいるのだが、贖えない血縁の物語は、連綿と続くギリシア悲劇の家族の絆にも共鳴し、現代を斬っていくと同時に、ある種の普遍的な神話性をも獲得し得たと思う。ちなみに、蜷川演出の「グリークス」の宣材写真と、そのテイストが酷似しているのは偶然か、それとも何か物語に共通する意図をクリエーターが感じ取ったためなのか。

 物語の中心に位置する、窪塚洋介の存在感が圧倒的だ。しかも、演劇の技術論を駆使して役を演じるというのではなく、役柄の真髄を内側から掴んで立つという彼の舞台上での在り方が、観客の気持と自然に共振していく。彼方遠くを見やるその眼差しの先に彼が見出そうとしていることと、作品自体が指し示していく日本人が向かうべき“何か”を探るというアプローチが、見事にドッキングする。作品全体に対する深い読み取り作業を完全に自分なりに昇華させ、彼は作品そのものとなった。

 伊藤蘭が成熟した女の色香を放ち、気風の良い女っぷりで物語にアクセントを付け加えていく。後半、詩を朗じ物語をクライマックスへと誘っていくのだが、その緊張感ある佇まいから目が離せない。中嶋朋子の、やつれた女の哀しさと、決して折れることのない女の強さとを同時に同居させたその存在感が、窪塚洋介の在り方と見事に拮抗していく。近藤公園のストレートな感情表現も目を惹く。マグマのような感情を押し殺し、ひたすら普通であることを装う落差の隙間に、観る者の心がスッと引き込まれていく。高橋和也の洒脱、丸山智己の愚直さ、青山達三の老練さ、田島優成の閉じたがゆえのピュアさなども、印象に残る。

 雨を実際に降らし続ける演出は、初演時から変わらない。濡れそぼる登場人物の心情を反映させると同時に、こうした苛烈な状況を作ることにより、俳優たちが己の内側にあるパワーを最大限に爆発させることが出来る、起爆装置のような役割も担っているのかもしれない。また、見た目にも刺激的で、観客の興味を惹き付け離さない。

 終盤、停電になるシーンがあるのだが、この場面が今までのどの公演の時よりも、グッと心に迫るものがあった。光さえ見えない今の“無”の境地から、何を見出し、そして、どのように、何を頼りに、明日に向かって駒を進めていけばいいのかと模索する登場人物たちの姿が、今の日本の状況とクロスし、ヒシと胸に迫り心の涙が溢れ出す。

  若い役者も多く出演するのだが、彼らが身に纏う生きていること自体のリアリティーの希薄さが、まさに時代を反映していく。脆弱な肉体と思想では、未来は切り開くことが出来ないのではないかという危惧を感じるのと同時に、であれば祈りを捧げるしかないのではないかという精神性なるものが浮き彫りにされた感がある。死した時代を鎮魂するかのような静謐さを湛えた本作が、古びることなく時代を超えて息づく光景を目撃出来たことが、何よりも明日への活力へと繋がる気がした。衝撃作、健在である。