劇評178 

過去との決別と、これからの半生をどう生き抜いていこうかという高らかな決意宣言。

「深呼吸する惑星」


2011年12月3日(土) 小雨 紀伊国屋ホール 18時開演

作・演出:鴻上尚史

出演:筧利夫、長野里美、小須田康人、山下裕子、筒井真理子
    / 高橋一生 / 大高洋夫  荻野貴継、小沢道成、三上陽永

 

場 :  紀伊国屋ホールです! 第三舞台が「朝日のような夕日をつれて」で同劇場に初進出した頃を思い起こしますねえ。劇場入口では鴻上尚史氏が来場する観客たちを見つめています。ロビーでは、色々なグッズが販売されています。気分は20年前へとだんだんワープしていきます。

人 :  年齢層高しです。50歳代が中心でしょうか。かつての第三舞台ファンが集結した感じです。往年のように、男性比率が高いですね。で、中年男性が二人とかで観に来ていたりもするんです。普通の演劇公演ではなかなかお見かけしない方々多しです。劇場内に、何とも言えない“青春追想”の甘酸っぱい雰囲気が満ち溢れています。

 オープニング、出演者全員が音楽に合わせてゆったりと身体をくゆらせながら踊る、あの、独特の浮遊感ある群舞で幕を開ける。あー、第三舞台が還ってきたのだという感慨が胸を突く。多分、かつての舞台を観ていたのであろう劇場に馳せ参じた観客たちも、同じ様な思いを共有しているのだということは、会場内に立ち上る空気感から容易に察することができる。演劇公演というよりは、信者の集会のような感じさえ漂ってくる。

 現代から物語はスタートする。取引先の息子が自殺してことで葬儀に集まった大人たち。出演者は全員が喪服だ。そこで、亡くなった青年がWEB上に書き残したブログが話題となるが、そこで舞台は一気に時空を超え、遠い未来の地球が支配する惑星へとその場を移すことになる。どうやら、その惑星の人間も、そのブログを読んでいたらしいのだ。その後、その内容に深く言及することはないのだが、WEB上に残された言葉が生き続けるというその1点に於いて、鴻上尚史がこの「封印解除&解散公演」に託した思いが見て取れる。

 惑星には、大高洋夫演じる地球の軍人、小須田康人演じる惑星の首相、筧利夫演じる記憶を無くした地球の墓守&反乱者が存在する。そこに、長野里美演じる地球の研究者が到着する。その世話を焼くのが山下裕子演じる惑星人で、その息子を高橋一生が演じる。その息子は、後に首相の秘書となる。筒井真理子は、他の惑星から来た謎の女として登場する。

 研究者は、この惑星に訪れた地球人が見る幻想が、自殺率を高めているその理由を探りに来たのだということが分かってくる。何週間後かに地球の支配者が訪問するまでに、その原因を解明できなければ、この惑星から地球は撤退する決断を下すらしいのだ。だんだんと「支配者」と「被支配者」という関係性が浮き彫りになってくる。そして、支配が始まって60年というキーワードから、この状況が「アメリカ」と「日本」のメタファーだと気付かされることになる。

 そうした社会的な枠組みの中に、幻想という個々人の想念が織り交ざられていく。この想念はあくまでも、個人史に組み込まれている主観的なものであり、度々訪れては、心の片隅に追いやられていた苦い思い出を開陳させられることになる。そのスポットにはまると、人は、現実と幻想の区別が付かなくなり、自殺へと導かれていくことになるのだ。忘れようとしていた過去と向き合い、それを整理し、そして、それを乗り越えようとする、今を生きる自分たちの姿が合わせ鏡のように、隠喩として差し挟まれていく。

 「日本」の在り方と、「個人史」=“これまでの活動”を、クロスさせることで、鴻上尚史は、これからの自分たちの行方を模索しているようにも思えてくる。そして、それは、正解のない永遠の問いかけのような気さえしてくるのだ。表層的な擬態の奥に潜む思想が零れ落ちていく様は、まさに第三舞台独特のアプローチ方法である。

 また、演じ手の表現手段も、この劇団ならではのオリジナリティーを獲得していたということに、改めて気付かされることにもなる。コントかとも思えるようなセッションを積み重ねていく内に、ある瞬間、物語の根幹とスパークして、その真髄部分を謳い上げるという様な鮮やかな飛翔を魅せていくその力技は、もはや、お家芸とさえ言えるのではないだろうか。

 自殺の要因は、遂に突き止められる。深呼吸をして、“あるもの”を吸い込んでしまうことが、そのきっかけを作り出してしまうのだ。その“あるもの”に託されたのは、「アメリカ」の文化? あるいは、2011年に起こった未曾有の惨事の代償? 様々な事柄が、頭の中を駆け巡る。

 かつて時代を牽引した寵児は、冷静に時代と人間を捉え、自らの“想い”を吐露し、観客に提示していく。敢えてSFというシチュエーションを創り出すことにより、ノスタルジックな「封印解除&解散公演」という思惑を取り払おうとする意思は感じられるのだが、物語の奥底に秘められているのは、やはり、過去との決別と、そして、これからの半生をどう生き抜いていこうかという決意宣言に思えてならない。

 我々はその“想い”をしかと受け取り、明日からの生き様に活を入れ直す準備をしなければならないのかもしれない。もはや、世の中は単純な構造物でないことは重々承知の年代だ。タンクにチャージする燃料は、希望と共に、きっと、絶望をも抱合して背負っていかなければならないのだろう。背負う荷物も、皆、様々なのだろう。でも、しなやかに生きていこう。そんなことが思えたステージだった。お疲れ様でした。そして、これからもヨロシク。