劇評179 

観客の心を鷲掴みにし、作品と対峙させ、胸を抉り、捕らえて離すことがない秀作。

「90ミニッツ」



2011年12月10日(土) 晴れ PARCO劇場 19時開演

作・演出:三谷幸喜
出演:西村雅彦、近藤芳正

 

場 :  ロビーには贈られた花が沢山飾られています。上演時間が書かれた立て看板には、90分と記されています。そうか、ピッタリ90分なんだと、何故かちょっと嬉しくなります。劇場内に入ると、既に幕は上がっており、舞台がオープンになっています。どこかの部屋のような設えです。

人 :  50歳代が中心でしょうか。エンタテイメントに慣れ親しんでいる大人の観客多しです。話を聞いていると、業界人比率も高い感じですね。また、男性観客が女性観客比率を上回っていますね。総体的に目の肥えた御仁が多い観客席のような気がします。

 三谷幸喜は発表する作品ごとに、新たにチャレンジするテーマを自ら設定していくが、本作は題名に堂々と謳っているように、「90ミニッツ」という時間内で物語が完結するという命題に取り組むことになる。キャストも同様であるため、「笑の大学」に倣った構成で展開されるのかと思いきや、一度も暗転を挟むことなく、90分ノンストップで舞台は進行していく。西村雅彦と近藤芳正は、一度も舞台を外れることがない。

 90分間、ドップリと作品世界に没入した。唸った。自分の倫理観がグラグラと揺り動かされた。観る者を安住させることのない究極の問題を矢継ぎ早に繰り出しながら、自分だったら一体そこでどういう決断をするのかを常に問われ続けていくため、観ていて気の休まる状態が訪れることはない。

 西村雅彦が医者、近藤芳正は子どもが事故で瀕死の状態にある父という役回りを演じる。90分とは上演時間そのものと、その子どもの命が維持出来るであろう、ぎりぎりのリミットを表す時間双方の意味が掛かっていることが、次第に分かってくる。何故、ぎりぎりなのか? その理由は、手術に同意する書類に父親が承諾のサインをしないと主張しているからだ。手術をすれば生還出来る状態だと言うのだが、時間は刻々と過ぎていく。

 手術をしたくない理由は、他人の血が子どもの体内に入るからだと父は言う。それは信奉する宗教に因るもののようだが、こうして冒頭から、価値観による見解の相違が観客に叩き突けられる。自らの血肉を他者と交わらせないことが、来世の幸福へと繋がるのだと信じる人に、手術の効能を説くことは困難を極める。折り合う接点のないまま、論議は平行線を辿っていく。

 終始、舞台前面の上方から、まるで砂時計のように、一筋砂が落ち続けている。このシンボリックな仕掛けは物語に客観性を与え、静謐さの中にも、贖えぬ神秘性をも醸し出すことになる。

 生死を賭けた攻防は、決して止むことなく、徐々に二人の心理的内面へとダイブしていく。頭の中とは裏腹に、子どもを助けたいと思う父が繰り出す舌鋒。あるプライベートの状況が、患者を助けるという使命を凌駕していると語る医師。精密に書かれた地図を辿っていくがごとく一分の隙もない両者の応酬に、目が釘付けになっていく。張り詰めた緊張感は解かれることなく、ますます緊密さを増していく。

 西村雅彦が、高潔な使命と個人的な思いとの間で逡巡する医師を、実に人間臭く演じており、作品にふくよかな温かさを与えている。近藤芳正は、一見狂信的とも見える役どころだが、心の奥底に秘められた本心との間で揺れ動く様が、緊迫感を更に増幅させていく。

 ずっと落ち続けていた砂が、ある瞬間、スッと引いていく。子どもの命が限界にまで追い詰められていることが、視覚的に飛び込んできて、ドキッとさせられる。二人は、果たしてどのような判断を下すのか、固唾を呑んで見守ることになる。そして、自らにも問うていくことになる。自分が医師の立場だったら、父の立場だったら、この状況でどんな結論を導き出すのであろうかと。

 どんどんと虚飾の体裁が剥ぎ取られ、核となる真情だけが舞台に浮き彫りにされていく。そして、登場人物のみならず、観客の真情をも剥き出しにしていく、この凄さ。助けなくてもいい命は、一体あるのであろうか? 理詰めで追い込まれていくので、もはや逃げ道は何処にもない。この感覚は、体感しないと分からない。

 最終局面で、ある決断が下されることになる。人間の良心が問われた結果が露わになった瞬間だ。ホッと胸を撫で下ろしもするが、それは、実にビターで、心残りの残滓が零れる結果でもあった。生きているその一瞬一瞬を、後悔することなく判断をしていかなければならないのだという痛烈なメッセージを叩き突けられ、リアル世界へとその思いを持ち越していくことになる。

 観ている者全ての心を終始鷲掴みにし、否応なく作品と対峙させ、胸を抉り、捕らえて離すことがない、秀作だと思う。