これ程までアナーキーな演劇が、昨今、あったであろうか。蜷川幸雄と橋本治、そして、鈴木慶一のコラボレーションは、持ち得る限りの才能とパッションを作品に叩き込み、既成概念を覆す弩級のインパクトとオリジナリティー奪取した。
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橋本治が36年前に一晩で書き上げたと言われている本作は、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」をミュージカルに仕立て直しているのだが、“本家”の基本をしっかりと押さえた上で換骨奪胎されているため、“こう来たか!”とワクワクするような、双方の相違の妙がじっくりと楽しめる面白さに満ちている。また、一気呵成に書かれた“勢い”が登場人物たちにも反映されており、皆が悩みながらも迷いなく突っ走っていくスピード感が、作品に若々しいフレッシュさを与えている。
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作り込まれたというよりも、才気が弾けたようなこの脚本だからこそ、成し得ていることがある。様々なガジェットが集積する世界だからこそ、ところどころにいい意味での“隙間”が生まれてくるのだ。そのエアポケットに、蜷川幸雄が作品をグッと押し広げる外連味をこれでもかとブチ込み、その中で旬の役者が熱い演技バトルを繰り広げるという幾重にも重なる仕掛けが施されている様相は、まさにパンキッシュだ。このテキスト自体が、自由な発想を収焉させる、仕掛けそのものになっていると言える。
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時代の設定からしてふざけている。“昭和51年にして文政8年、さらに元禄14年であり、しかも南北朝時代。ところは東京都江戸市内”ときている。昭和51年に本戯曲は書かれ、文政8年に「東海道四谷怪談」は初演された。元禄14年は江戸城で松の廊下事件が起きた年で、「東海道四谷怪談」が「仮名手本忠臣蔵」の外伝として書かれたことを冒頭で示唆したか。南北朝時代とは駄洒落なのか、はたまた権力が1つに集約されない価値観の多様化する時代の暗喩なのか。想いは入り乱れて、平成24年に本作は甦ることになった。
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出演者全員が和装で揃い、パッと扮装を脱ぎ捨てると現代の出で立ちへとワープするオープニングが、冒頭に記された時代設定を見事に体現していく。そこからは、70年代風な香り残しつつ、どの年代とも特定しない風俗で作品は彩られていく。そして、キャスティングの肝は、お岩の尾上松也にあった。熱に浮かされたように自分探しに奔走する蒙昧な輩の中にあって、歌舞伎の技法で織り成されるお岩の造形が、本作が「四谷怪談」であることをしっかりと支え、作品に普遍性を与えていく。
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佐藤隆太演じる伊右衛門は、実力と華を持つ豪華なキャスト陣の中心に立ち、作品を牽引する。お岩が死に、その亡霊に悩ませる日々が続くが、亡霊の正体が暴かれた時、一気に自我を打ち破る瞬間の長大な吐露を繰り広げるシーンは圧巻だ。“何もない空間”で自問自答を繰り返しながら、明るく虚無を嘲笑する意気に、それまで作品が悶々と抱えていた鬱屈が一気に爆発する。
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そこからはエンディングに向けて一気呵成に雪崩れ込んでいく。出演者総出で「ぼくらはみんな死んでいる」時代を祝祭するかのように、軍艦マーチにのって歌い、踊り、オリジナル楽曲「ロック版四谷怪談」で怪気炎を上げる。そして、まるで紅白歌合戦の最後のように、観客に向けて銀の帯が爆発し投げ掛けられる。まさに、ザッツ・エンタテイメント!である。
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役者陣はその誰もが、自らの中にあるブッ飛んだ手の内を開陳しながら、奇妙奇天烈な作品世界とスパークする。小出恵介のクールとダサさの共存、勝地涼の小心者の小悪人振り、栗山千明の小股の切れ上がった女っ振り、三浦涼介の清濁合わせ持つ二面性、谷村美月のピュアな愚鈍さなど、それぞれのキャラがクッキリと際立ち、楽しませてもらった。
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麻美れいがこんなにも砕けた面白さを発揮するとは意外なサプライズであり、勝村政信は絶えず作品にコミカルな要素を付加し続けるため目が離せない。瑳川哲朗は柔軟に様々な役柄をこなしながら可笑し味を振り撒いていく。
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鈴木慶一の音楽も絶品だ。あらゆる技法を駆使し、はちゃめちゃな詞に詩情を与えていく。どの楽曲も素晴らしいが、権兵衛とお袖がラップする食事のシーンは大いに笑った。また、もちろん氏の作品ではないのだが、ワルキューレの騎行の曲にのせて、第二のお岩がオリジナルの詞を高らかに歌うシーンは、可笑しさを通り越して、愕然としながらも、大笑いしてしまった。
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勝芝次朗の照明も素晴らしい。夢の中を表現する明かりは確実に異次元を表現し得ていたと思う。中越司の美術も、前田文子の衣装も、時代性を軽々と凌駕し、普遍性を獲得していた。
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エンタテイメント精神が溢れる傑出した逸品であると思う。こんな馬鹿げたお祭り騒ぎのような作品には滅多にお目に掛かれることはないだろう。この作品に出会えた人は、ラッキーであったとしか言いようがない。
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