劇評288 

清水邦夫戯曲が持ち得る普遍性が、行定勲の手綱捌きで明らかとなった見応えある秀作。

 
 
「タンゴ 冬の終わりに」

2015年9月6日(日) 晴れ
PARCO劇場 14時開演

作:清水邦夫 演出:行定勲

出演:三上博史、倉科カナ、神野三鈴、岡田義徳、有福正志、有川マコト、
小椋 毅、河井青葉、青山美郷、
三浦翔哉、梅沢昌代、
ユースケ・サンタマリア、他

場 : 初日翌日に伺ったため、ロビーには贈花が沢山立ち並び、花の香りでむせ返るようです。劇場内に入ると、舞台上には、映画を投影するスクリーンだと思われる美術が設えられています。少し気になるのが、このスクリーンの下段のラインが一直線じゃないんですよ。惜しい!

人 : ほぼ満席な状態です。お客さんは、実に様々な方々が集っていますね。男女比でいうと、やや女性比率が高いでしょうか。

 本作は、清水邦夫が蜷川幸雄のために書き下ろした戯曲である。初演は1984年。その2年後に再演され、1991年にはロンドンでアラン・リックマン主演で上演されたこともある。その凱旋公演が実現しなかったのは、今、思っても惜しいとしか言いようがない。2006年には、キャストも新たに上演された。そして、今回、行定勲が迎えられ、新演出で甦る瞬間を目撃したいとの思いで劇場へと足を運ぶことになる。

 映画館が舞台となる作品である。映画監督でもある演出家が、まず、冒頭でどのようなアプローチで同作に迫るのかを注視する。プロセニアムには映画館のスクリーンを模した幕が吊るされている状態であるが、映像が投影されるスクリーンの下部のラインが一直線じゃないんですよ。ちょっと曲がっているんです。まずは、これが、気になってしまった。んー、何故なんでしょう。

 観客席はスクリーンの奥側という設定なので、字幕も逆側に映像が投影されていく。映し出される作品は、懐かしの名作が連綿と繋がれたダイジェスト版の映像。多くの観客を惹き付ける上手い導入だ。

 そのスクリーンの彼方、映画館の観客席で物語は展開していく。突然に表舞台から姿を消し故郷へと隠遁した舞台俳優とその妻に弟に、俳優を追ってきた女優と夫たちとが織り成す物語は、追憶に囚われた人々の、過去を断ち切ることの出来ない残滓が交錯し、虚実の皮膜が曖昧な領域へと染み出ていく。

 蜷川演出は同戯曲を、清水邦夫との仕事の決算と、全共闘時代の総括の様相をオーバーラップさせて描いていたと感じていたが、行定演出は自己の状況と戯曲とを重ね合わせることはない。戯曲とシカと対峙し、その世界に生きる人間の生き様を活写していく。そのアプローチにより、清水戯曲が内包する普遍性が浮き彫りになっていくことになる。

 第一線から退いた名優を演じるのは、三上博史。もはや意識はこの現実世界にないという、幻想の世界に生きる人間を見事に造形した。近年の三上博史は、孤高というか、あらかじめ自ら閉じてしまっているかような資質が前面に出ているように感じていた。しかし、本作においては、その資質が役柄とピッタリと符合していくのだ。少しずつ心身の内面が瓦解していく様を狂気を孕みながら演じていく三上博史は、作品のセンターに聳立し強力な磁力で物語を牽引していく。

 俳優の妻は神野三鈴が演じるのだが、夫を再生させたいと願う複雑な心情を明晰に表現し、現実世界からの冷静な視点を作品に照射していく。岡田義徳が俳優の弟を演じるが、映画館を潰しスーパーマーケットへと土地を提供する現実世界を生きる青年像をリアルに造形し、浮世離れした兄との対比をクッキリと浮き立たせる。

 俳優を追ってきた人気女優を演じるのは倉科カナ。彼女のピュアな資質が、三上博史が放つ底知れぬ哀しみをスッと浄化していくようなのだ。倉科カナの存在感が、作品に潤いと癒しを与えていく。女優の夫をユースケ・サンタマリアが演じているのだが、まずは、こういう脇の役回りを担うこともあるのだなと感じ入る。ユースケ・サンタマリアの深刻に陥り過ぎることのない軽妙なキャラクターに心和ませられるが、妻の心情を思う深刻さをそこはかとなく滲ませながら役柄を重層的に構築していく。

 戯曲から社会的な要素を切り離し描くことで、生身の人間の生き様をヒリヒリとしたリアルさを持って描いて見事である。清水邦夫戯曲が、いつの世にも通じる普遍性を持ち得ていることが、行定勲の手綱捌きで明らかとなった見応えある秀作である。


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