劇評88 

揺るがぬ生き方を貫いた者に向けての鎮魂歌。

「さらばわが愛 覇王別姫」


2008年3月9日(日)晴れ
シアターコクーン午後7時開演

原作:李碧華  脚本:岸田理生  演出:蜷川幸雄  音楽:宮川彬良
出演:東山紀之、木村佳乃、遠藤憲一、沢竜二、西岡徳馬

場 : 初日である。初日特有の独特の雰囲気が会場全体を漂う。 会場内に入ると、舞台上では役者たちが京劇の自主訓練を行っている。舞台奥の扉が開け放たれ、文化村の駐車場が見えている。駐車場には黒いリムジンが駐車してある。何か展開に関わりがある演出の一部かと期待したが、結局は特に関連性はなかった。
人 : 満席。ご招待者の方々らしき人々が、やっと実現にこぎつけましたね、とか感慨深げに語り合っていた。ご挨拶があちこちで交わされている。

 1993年、カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した同題名作品を音楽劇として再生させた作品である。映画版は濃密な感情や目まぐるしく変化していく社会情勢の混沌が大きなうねりとなって、観る者を圧倒させる壮大な叙事詩であったが、本作ではそのエッセンスが汲み取られ、エピソードによって紡がれていく美しい織物のようなテイストであった。




 オープニングのシーンで、まずは、グッと気持ちを鷲掴みされた。舞台奥から母親に追いかけられ逃げて来る幼い頃の主人公がスローモーションで現れる。捕まった主人公は6本ある指の1本を刃物で切り落とされる。異形が封じ込まれる! 途切れることのない序曲。その後も、京劇の学校へ追いやられた主人公のエピソードを、映画のフラッシュバックのようにドンドンとスピーディーに見せていく。京劇の稽古のシーンも織り交ぜながら、ダイナミックに描かれるプロローグは刺激的だ。




 岸田理生の脚本は、物語をとことん突き詰めその核となる感情や出来事だけを抽出してく。つながっていく次なるシーンに感情をブリッジしていくのも限られた台詞の中で演じなければならず、また、その感情の高まりを歌で表現していくため、役者がその役柄に感情を込め、かつ、一貫性を保ちながら演じていく作業がとても大変であろうと感じた。その場で沸き起こる感情とは別の、物語の進行を司る通低音のような一貫した視点を持ち合わせて演じなければ気持ちが伝わってこないのだ。しかも、気持ちを伝えたいけど伝えられない、話すこととは裏腹の思い、思ってもいないことを言わなければならない苦痛などなど感情は幾重にも重なっており、またその流れを分断するかのように、中国民衆のアジテーションや、日本軍の横槍などが挿入されるので、感情の行き場がクルクルと変わり、ひとところに留まろうとする観客の意識を次から次へと翻弄していく。




 観客は、東山紀之の一挙手一投足を、固唾をのんで見守っていた。会場はシンと水を打ったような静けさであった。華があり、揺らぐ心を演じて繊細だが、秘めたる思いを表出させるという難解で屈折した役どころに、未だ馴染みきっていない感があった。いまひとつ感情が観客にまで届かないのだ。故に、同情も反発もなく、溢れ出る心揺さぶられる思いが紗幕の向こうで留まってしまい、ただ時代に翻弄されるひとりの男を目撃しているような感じなのである。もっとグッと心を突き刺してきて欲しかった。




 遠藤憲一は体躯がでかくインパクトがあり、野放図だがデリケートな二面性をうまく演じ分けていたが、歌が多少苦しい気がした。西岡徳馬は東山紀之を寝床へと誘う役どころだが、カラッとしていて陰湿な感じが全くない。強引に誘ったというよりも、避難してきた小鳥をかばうがごとく、慈愛に満ちた大きさを感じさせてくれた。木村佳乃は、サバサバとしていて美しいが、微細に心移りゆく心境の変化など感情が少し分かり難い。




 終盤、様々な者が不幸な顛末を迎えるのだが、その後、再度、オープニングの幼少の頃のシーンがリフレインされてくる。もしかしたら、こんな悲惨な物語は幻や夢ではなかったのか。現実に起きたことではなかったのではないか。精一杯に生き抜いた皆々の原点に回帰することで、オープニングと全く同じシーンではあるのだが、白昼夢とも、走馬灯ともとれる、懐かしさと甘酸っぱさが詰まった皆が我武者羅だった頃の空気感が立ち上ってくる。中国近代史の横軸も織り交ぜながら、変われない、いや、揺るがぬ生き方を貫いた者に向けての、まさに鎮魂歌であった。オリンピックの入場行進であろうアナウンスがうっすらと流れる中、これからの中国が、日本が向かうべき道について、ついつい思いを巡らせてしまう自分がいた。