劇評239 

現代日本を憂うる物語を、普遍性ある叙事詩へと造形した演出家の手腕に脱帽させられた衝撃作。

 
「冬眠する熊に添い寝してごらん」

2014年1月12日(日) 晴れ
シアターコクーン 17時30分開演


作:古川日出男 演出:蜷川幸雄
出演:上田竜也、井上芳雄、鈴木杏、
立石涼子、大石継太、冨樫真、間宮啓行、
木村靖司、石井愃一、瑳川哲朗、沢竜二、
勝村政信、他

   

場 : アイドルグループ、KAT−TUNの上田竜也くんが主演なので、ロビーなども賑々しい雰囲気なのかと想像していたら、至って平穏な感じでした。パンフ購入のための列は出来ていませんし、ドリンクコーナーも閑散としています。何でかなと考えたのですが、既にファンは何度か観に来ており、その際にもうパンフは買ってある。そして、出費を防ぐため、劇場内ではドリンクや軽食は購入しないということなのかと推察しました。劇場内に入ると、舞台正面の黒地のスクリーンに白字で、同作のタイトルが投影されています。

人 : 満席です。立見席も出ています。上演時間が、15分の休憩を挟んで3時間50分なので、しんどいのではないだろうかと思ってしまいます。お客さんは、やはり、10〜20歳代の女子の姿が目立ちますね。きっと、上田くんファンなのでしょう。一人来場者の比率が高い感じがします。

 古川日出男が描く世界は、日常の中に潜む狂気を異説として立ち昇らせ、叙事詩にまで昇華させるダイナミックさに満ちていて躍動感があるのだが、その特質が本作初戯曲においても息づいており、筆致は100年前の東北のマタギにまで世界観を跋扈させる。

  過去と現在との時空が入り混じり、リアルと幻想を同次元に現出させ、およそ日常会話とは思えぬ台詞によって紡がれていく壮大な物語は、一見難攻不落の城壁にも思えるが、見事、観客を惹き付ける作品へと創り上げることに成功した。その功労者は、何といっても、蜷川幸雄の演出力に他ならない。

 古川日出男は、完全に蜷川幸雄に戯曲を委ねる前提で執筆しているのは明らかで、現実的に舞台に載せていかなければならないという演劇の制約から完全に解き放たれ、奔放なまでに連鎖するイメージをとことん拡大させていく。どう育ててくれるのかを楽しみにする、生みの親のある意味我がままさと、稀代の演出家とがガッツリ正面衝突をしてスパークする様はこの上なくスリリングだ。そのガチンコ勝負が、本作の最大の見せ場でもあると思う。

荒削りに構築された北陸の民族史ともいえる本作は、そのスケールの広大さにおいても、其処此処に散りばめられたスペックの深遠さにおいても、1つの作品として説得力を持たせていくのにはなかなか御し難いテキストだと思う。過去に存在する、熊猟師、富山の薬売り。時代背景は、シベリア出兵、新潟での石油発掘事業。それらが、現代とワープしていく。ライフル競技でオリンピック代表選手の兄・一と、商社マンの弟・多根彦。兄は、熊猟師の高祖父のDNAを受け継ぎ、弟はガソリンスタンドの事業構築を商社にて担当し、歴史の中に封じ込まれた石油事業を知らず知らずに牽引する役割を担うことになる。ある種の北陸の命運を、この兄弟が継承することになっていく。そして、その時空の隙間に存在し、観念とリアルの薄い皮膜を自由に行き来するのが、犬であり、猟師が討ち取る対象である熊となって、立ち現れてくるのだ。 

 その運命の兄弟に間に割って入るのが、犬を歌う、詩人の女性、ひばりである。最初は多根彦の婚約者であったのだが、両家挨拶の場・回転寿司屋に先に着き、隣り合わせになった一とひばりはその場でお互いに惹かれ合い、逢瀬を重ねることになっていく。「男子、二十五歳にして一子をもうけるべし」の家訓を守ろうとした多根彦の意思は、運命の力によってもろくも崩れ去ることになる。

 人や野獣や歴史が通過した後に残る幾筋もの轍を、丁寧にかつ大胆に、解きほぐし結んでいく蜷川幸雄は、抽象を全て可視化させていくことで、観客に創造力を委ね過ぎることなく、エンタテイメントとして成立させ提示するプロフェッショナルの力技を全開させていく。

 ト書きをスクリーンに投影し作者が描きたかった情景を観客に伝える手法を取り、詩人が詠む詩も作者の直筆文字を大きく舞台に映し出していく。また、大仏の口から犬が吐き出されたり、大仏の頭が犬に挿げ替えられたり、シベリア出兵の情景が時代背景として据え置かれていく様など、視覚的なサプライズも何なくやり遂げていく。

 一番驚愕したのは、一とひばりが出会う回転寿司屋のセットである。舞台と1階客席通路と1階客席中央の通路にベルトコンベアを急ごしらえで設え、実際に回る寿司を見た時、正直、度肝を抜かれた。惹かれ合う二人の会話も間々ならず、寿司屋の客たちの喧騒にともすれば掻き消されてしまう程の迫力で、観客に圧倒的なパワーを叩き突けていく。形而上的なるものを、生身の人間が生命を吹き込んでいくことこそが演劇の醍醐味であるということを、まざまざと見せつけてくれる。戯曲から概念を取り払い、そこから人間の生き様を抽出して圧巻だ。

 兄・一を演じる井上芳雄のリアルな演技から目が離せない。どの役柄においても、何処かしら王子様然とした印象は拭えない、いや、それが彼の特質なのだと思っていたのだが、本作でその思い込みは完全に覆された。本能に忠実な一介の普通の青年が其処には存在していた。一皮剥けた井上芳雄がそこにはあった。

 KAT−TUNの上田竜也が弟・多根彦を演じるが、兄をこよなく慕いながらも、後半、婚約者を兄に取られ狂気の沙汰になる様を、ストレートに演じて好感が持てる。欲をいえば、愛憎が綯い交ぜになった行き場のない感情を重層的に立ち上らせてくれると、もっと複雑な多根彦の思いが付き刺さってきたのではないかと思う。

 詩人・ひばりは鈴木杏が演じる。一人舞台に立ち、まるで文章のような独白を語り始める場面などにおいて、台詞が言霊となる瞬間を目の当たりにすることになる。吐かれる言葉がその場で昇華され、詩となって開花する。熱情も半端なく運命の兄弟を翻弄する、ファムファタールを艶やかに造形していく。女優としての色香が増してきた感がある。

 孤高の熊猟師である高祖父を、勝村政信が演じていく。役柄上、一人で存在し独白が多く、丁々発止なやりとりはあまりないため、劇中でもまさに孤高の存在となっていく。伝統と新しい時代との狭間で揺れる、この猟師のDNAは消えることなく、連綿と続いていくことになるのだ。歴史とは、かくあるものだと認識することにもなる。

 「百年の想像力を持たない人間は、二十年と生きられない」。創り手たちのテーマは、台詞でも語られるこの一文に集約されるのかもしれない。現代日本を憂うる大いなる危惧を神話化させ変換することで、物語を普遍性ある叙事詩へと造形した演出家の手腕に脱帽させられた衝撃作であった。