演劇という虚構のワールドを、いかに観客に親しみを込め楽しんで観てもらえるのかが劇作者にとって最大の命題であると思うのだが、そのテーマをエンタテイメントとして見事に昇華させた本作は、観る者誰の心にもリーチする表現にて、嬉々とした楽しさを享受できる。
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1977年初演の本作は、当時どのように受け入れられたのかは、もはや知る由もないが、アングラ演劇が社会に物申すアジテーションを発破する最中に、異国の地に花咲く一遍の夢物語の様な物語は、心癒され、またある意味、異質な存在感を示していたのではないだろうか。しかし、その後、自由劇場から巣立っていった多種多彩な才能が活躍する潮流を確かめるにつれ、六本木の地から発信された数々の作品群は、強烈な磁力を内包していたのだということが証明されることにもなる。
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時を経て、2014年の現代においても、1970年代に書かれた1920年代のシカゴを舞台にしたフラッパーとギャングたちが織り成す、恋の鞘や当てやギャング同士の抗争などの物語が、実に新鮮に描き出されていることに驚きを隠せない。いつの世にも通じる普遍性を持ち得た作品の強靭さを目の当たりにすることになった。
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台詞がシンプルで、展開もゆったりとしているので、無理なくドップリと作品世界に浸ることが出来、心地良い。いい意味で、ステージから提示される情報量が上手くコントロールされているため、観客が要らぬ思考を必要以上に働かせる必要がないのだ。要は分かりやすいということだ。
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カリカチュアライズされた登場人物たちが、劇画的とも言えるクッキリとエッジの利いた人物像を造形し、オリジナリティを獲得している。かつて何処かの映画か何かで見た記憶があるようなシーンが繰り広げられていくのだが、役者陣が自ら楽器を演奏するシーンなど、ある種の異化効果とも言えるエピソードを挟み込むことで、耳にも心地良いオリジナリティある串田ワールドが造形されていく。
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串田和美は作・演出の他に美術と衣装も兼任するが、可視的なる領域において徹底して自身の美学を追及していく。フラッパーたちが身に纏う衣装の美しさに見惚れたのだが、鳥居ユキの作品だと知り、上質を取り込んでいく串田の目利きに納得する。おもちゃ箱のようなキッチュで華やかな舞台美術も、目に楽しい。
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様々なエピソードが絡み合いながら、その時代に生きた人々の悲哀を活写していくが、リアルと虚構の狭間に存在する俳優陣の在り方が、絶妙だ。
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デンジャラスな街、シカゴの舞い降りた踊り子を演じる松たか子は男装で登場する。シェイクスピアとも少女漫画とも言えるこのシチュエーション、親和性があり実にのめり込みやすい。松たか子は、ミュージカルでも鍛えた美声も駆使しながら、物語の中軸に立ち、作品を牽引していく。恋を掴み掛かるが恋に破れる女の哀しみと、それでも前向きに生きる女を秋山菜津子が逞しく造形する。りょうの軽やかで美しい存在感も観客の目を惹いていく。男は時代の流れと共に風に吹かれて舞い散るが、女は大地に根を下すがごとくしっかりと生き続け時代を切り拓いていく姿に、串田の温かな視線を感じ取っていく。
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主にギャングの親分を演じる松尾スズキが、印象的だ。鈴木蘭々演じる可憐な女性に恋焦がれ逡巡する男心がコメディリリーフを担い、作品に可笑し味を付加させる。石丸幹二演じる新聞記者はこずるい手立でスクープをものにしようとするが、最終的には長いものに巻かれてしまう小市民振りをしなやかに表現する。声量豊かな歌いっ振りも堪能できる。片岡亀蔵の品性と某国の皇太子の高貴さとが上手くシンクロしていくが、だんだんと自らのアイデンティティを見失っていく姿の中に、幸福の内に秘められた闇をカンバスに刷毛で一塗りされたかのようなアクセントを残していく。
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多少冗長を感じるきらいもあるが、長じて舞台をおもちゃのごとくエンジョイする串田和美が捉える美学がキラキラと全面に押し出されたエンタテイメント作品として、万人が楽しめる作品に仕上がっていると思う。
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